Xでの工藤勇一氏の投稿

 横浜創英中学・高校の元校長で、政府・文科省でも教育政策に深く関わってきた工藤勇一氏の問題提起です。

 教育界には、「良いことだとほとんど疑うことなく信じられ、当たり前のように行われていることがたくさんあります。 例えば、日本全国の小中学校で長く続けられている「あいさつ運動」、そして近年、一部の地域で広がりつつある「黙々清掃」などが挙げられます。 僕が尊敬する校長先生の中にも、これらの活動を先頭に立って推進されている方がいらっしゃるので言いづらい部分もありますが、それでも問題提起をしておきたいと思います。 皆さんは、「あいさつ運動」によって傷ついている子どもがいることを考えたことがありますか? 登校をためらう子、場面緘黙の子、人間関係に悩んでいる子にとって、「あいさつ運動」は必ずしも心地よいものではありません。朝の校門を関所のように感じている子もいます。 ずらりと並んだ生徒や先生、「おはようございます」の連呼——。一体、誰を見て、誰にあいさつすればいいのか? 何回あいさつすればいいのか? そうした状況に、教師の私でさえ戸惑うことがあります。 さらに、以前は毎日のように校門で頭髪や服装チェック、遅刻指導などが行われ、「出直して来い!」と家に戻されることも珍しくありませんでした。こうなると、もはや「あいさつ運動」の目的が分からなくなってしまいます。 言うまでもなく、あいさつとは単に「おはよう」「こんにちは」と声をかけることだけではありません。あいさつはコミュニケーションの一部です。例えば、職員室の前で明らかに外部の方が立ち止まっている場面を想像してください。 「何かお困りですか?」 「何かご用でしょうか?」 「どなたかとお約束ですか?」 このような声かけも、立派なあいさつです。むしろ、こうした自然なやりとりができる教師が増えることのほうが、あいさつ運動よりも学校にとって意義があるのではないでしょうか。 子どもたちは、大人の姿を見て、あいさつの本当の意味を学んでいくのです。 さて、「黙々清掃」についても、その危険性を考えたことはあるでしょうか? 黙って掃除に集中する姿は、日本特有の精神修養のようにも見えますし、効率が良いようにも思えます。 しかし、改めて考えてみてください。全国の子どもたちが、自分の意思とは無関係に黙々と掃除をしている光景を。本当に、私たちはそんな姿を望んでよいのでしょうか? 価値観は人それぞれ自由ですが、それを他人に押しつける行為は、ときに暴力にもなり得ます。学校は、一部の価値観を押しつける場所ではありません。 誰一人取り残さず、持続可能な社会を築いていくために、私たちは今こそ、学校の本質についてもっと議論する必要があるのではないでしょうか。

全教「2024年 被災地フクシマを見る・歩く・考える」行動に参加して⑥

長崎高教組執行副委員長 今泉 宏

 また、木村さんは学童の先生に、「木村さんの家は海の近くだからこの場に留まった方が良いですよ。」と言って欲しかったとも話されました。言葉の裏には、参加した私たち教職員は、生徒の家庭環境もわかっているだろうから、適切な判断をして欲しかったというメッセージが込められていました。自分だったら適切な判断ができただろうかと考えると、教師としての判断の重さを感じました。また、心配した木村さんのお父さんは、最初は小学校に長女を迎えに行って、長女には学校には留まるように言ったのに、どうして次女だけを連れて行ったのかとも話されました。災害が起こったときの判断の難しさも伝わってきました。

  津波で汐凪さん、木村さんの奥さん、お父さんの3人が犠牲になりました。私たちは木村さんの自宅があった場所まで行きました。家の跡形もない、玄関のタイルだけが残された現場に声も出ませんでした。